「たとえ錦を着ても、心が愚かならば役に立たない」
で知られる真田昌幸は
戦国時代後期の武将で、
知略で大国の間を渡り歩いた「戦国屈指の策士」として知られる人物です。
有名な武将 真田幸村(信繁)の父でもあります。
■1547年頃
信濃の武士の家に生まれる。
のちに甲斐の名将
→ 武田信玄
に仕え、軍略・統治を学ぶ。
➤武田流の戦術・内政を習得
■1573年
武田家滅亡後、主家を失う。
昌幸は織田・上杉・北条などの間で巧みに外交し、
真田家の独立を図る。
➤小勢力ながら生存に成功
■1580年代
上田城を築城し、真田家の拠点を確立。
真田家を一国レベルの勢力へ成長させる
独立大名としての地位を確立
■1585年(第一次上田合戦)
徳川軍の侵攻に対し、
少数の兵で撃退。相手の総大将
→ **徳川家康**の軍勢
➤真田の名を全国に知らしめる大戦果
■1590年
天下人
→ **豊臣秀吉**に従い、
大名として正式に認められる。
➤真田家の存続を確定させる外交成功
■1600年(関ヶ原の戦い)
家を守るため戦略的分裂を実行。
昌幸・次男 → 西軍
長男 → 東軍
勝敗に関係なく真田家を残す策
さらに上田城で
→ **徳川秀忠**軍を足止め
徳川主力の到着を遅らせる戦術成功
■1600年以降
西軍敗北により高野山麓の九度山へ流罪。
息子
→ **真田幸村**とともに隠居生活。
まとめ
小大名の真田家を独立勢力に育てた
上田合戦で徳川軍を撃退した
家を分ける戦略で真田家を存続させた
➤「小国を知略で守り抜いた戦国最高クラスの戦略家」
真田昌幸の最期
■1611年
九度山で死去。
戦場ではなく、静かな最期を迎える。

