「この矢一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ず背くなかれ」
で知られる毛利元就は
知略によって勢力を拡大した代表的な武将です。
元就はわずかな国人領主の家に生まれながら、外交・謀略・軍略を駆使して中国地方一帯を支配する大名へと成長させました。また「三本の矢」の逸話で知られるように、家族や家臣の結束を重視した人物としても知られています。
1497年(明応6年)|誕生
毛利元就は 1497年4月16日、安芸国(現在の広島県)吉田郡山城で誕生しました。
父:毛利弘元
幼名:松寿丸当時の毛利家は、中国地方を支配する大名ではなく、安芸国の一国人領主に過ぎませんでした。
元就は 毛利家の次男として生まれたため、本来は家督を継ぐ立場ではありませんでした。
■1506年|父の死
元就は幼少期に母を亡くし、さらに10歳頃に父の弘元も死去します。
そのため幼い元就は、家族や家臣の庇護のもとで育てられることになります。
この頃の毛利家は弱小勢力であり、周囲の大名に翻弄される不安定な立場でした。
■1511年|元服
元就は元服し、正式に 毛利元就を名乗るようになります。
この時期の毛利家当主は兄の毛利興元でした。
■1517年|初陣(有田中井手の戦い)
元就は 20歳前後で初陣を迎えます。
:有田中井手の戦い
:武田元繁
元就はこの戦いで 敵将・武田元繁を討ち取る活躍を見せ、武将として名を上げました。
この勝利は、毛利家の評価を大きく高めました。
■1523年|毛利家の家督を継ぐ
兄の子(甥)である当主 幸松丸が早世したため、
27歳の元就が毛利家の当主となります。
この時、元就は本拠 吉田郡山城に入り、毛利家の運命を背負うことになりました。
■1525年|大内氏の傘下へ
当時の中国地方は
大内氏
尼子氏
という二大勢力が争っていました。
元就は政治的判断から 大内氏の傘下に入り勢力を伸ばします。
■1540年|吉田郡山城の戦い
尼子晴久率いる 3万の大軍が毛利の本拠を攻めます。
しかし元就は
地形利用
籠城戦援軍の活用
などで撃退しました。
この戦いは 毛利家の存亡を分けた戦いと言われます。
■1546年|隠居と権力体制
元就は家督を長男 毛利隆元に譲り、形式上は隠居します。
しかし実際には政治・軍事を指導し続けました。
また
次男 → 吉川元春
三男 → 小早川隆景
をそれぞれ名門家の当主にします。
これを
「毛利両川体制」
と呼び、毛利家の強力な統治体制となりました。
■1555年|厳島の戦い
元就の最大の勝利が
厳島の戦いです。
敵
・大内氏の実力者
・陶晴賢
元就は敵を厳島に誘い込む
夜間に奇襲
という大胆な戦術で大軍を撃破しました。
この戦いは日本三大奇襲の一つとも言われています。
■1557年|大内氏を滅ぼす
厳島の戦いの後、元就は大内氏の本拠地を攻め
周防・長門を支配下に置きます。
これにより毛利家は 中国地方の大大名となりました。
中国地方統一
■1563年|後継問題
長男の 毛利隆元が急死。元就は孫の 毛利輝元を後継者とし、自ら後見人として政治を行います。
■1566年|尼子氏を滅ぼす
長年の宿敵
尼子氏が降伏
これにより
中国地方の大半が毛利領となりました。
元就は一国人から中国地方最大の大名へと成長したのです。
■1571年|死去
元就は
1571年(元亀2年)7月6日
本拠の 吉田郡山城で亡くなりました。
享年 75歳。
その後、毛利家は孫の毛利輝元が継ぎ、豊臣政権下で西国最大の大名として繁栄しました。

